倫理的に生きる:暴れること

はじめに

わたしたちは「暴れる」を今年のテーマとして活動している。私が提示する暴れ方は「倫理的に生きる」だ。ここでいう「倫理的」とは実践における正しさであって、倫理学のある理論、立場と照らし合わせてそれに符合しているか否かということではないし、それに従えということでもない。多くのひとにとって、倫理学の理論を学ぶ暇はないだろうし、その内容を適切に理解しろというのは土台むりな話である。しかし、それ以前、倫理「学」に手を出す以前の問題を抱えているひとが大半だろう。では、「倫理的に生きる」という言葉のもとになにを理解し、どう社会に流されゆくままにならないでいられるか考えてみよう。

正しさ

正しさとはどういうことか。それはだれがどうみても認めなくてはいけないような必然的なことについての性質であると、軽く見積もっておこう。以下の話をするのにはこの程度で十分だと思う。また、正しさの種類を三種類ほどに分けておく。真善美というように。そして、善として正しいことが倫理的に正しいことである。この善という基準にはいろいろな種類があるだろうが、ここでは「対話内において(二人以上のものも、内省的なものも含める)、実践的なことがらについて、正しいとされるか否か」を基準にしていこうと思う。
ひとつ付言しておかなければならないのは、正しさが論理的なそれに限るということだ。たとえば、相手をボコボコに殴りつけて主張を受け入れなくてはいけないようにしても、それは倫理的ではない。常識的に考えてもそうだし、そのやり方だと、わたしはボコボコにされていないので、自分自身主張を受け入れなければならない謂れはない。これでは相討ちになるしかないようだけど(自分自身をボコボコにしたところで、ね)、もしそうなってしまったら相手の主張をも受け入れなくてはいけないだろう。互いの主張が相補的ないしは矛盾しなければいいけれど、矛盾するとき、どうすればいいのだろう。また、私は議論、対話を勝ち負けのある争いごとにするつもりもない。

どう暴れていくか

このような正しさがどう暴れることと結びつくのだろうか。まず、暴れることとはなによりもまず、社会の流れ、「普通」ということばの外延に逆らうことである。この普通さに従うことが果たして正しいのか、一歩たちどまって考えること。一歩たちどまって考えることは暴れること、少なくともその一歩出前にある。このタイミングで「普通」なひとの偽善さ、倫理的でない生き方を抉り出せれば、確実に暴れているといってもいいだろう。私はこのような暴れ方、生き方をすすめたい。
ただし、「普通」であることが必ずしも倫理的に間違っているわけではないし、一歩たちどまってしまったら、すぐに歩き出せるかわからない。私が考えている通りなら、次の一歩は牛歩のごときものになるだろう。考えること、対話することに終わりはこないし、考えるべきことは一歩ごとに山積していくだろう。そのなかで、どうするかはひとり個人の判断力に委ねられる。

おわりに

まとまりのない大きな話、しかもかなり素朴な話になってしまったけれど、私にはこれすらできてないひと、する気もないひとが多いと思われる。「ねえ、バイク通学が禁止になるらしいよ」「大学の言い分通りしかたないよね」「本当に?」「だって、危ないし、バイクで通学してるひと少ないし、たいして困らないよね。みんな」なんて返しをされたことも少なくない。各人で判断し、些末だと考えているかもしれないが、「自由」ということばにまで鈍感だとそうだとは信じられない(自由や権利という言葉に不感症なのは賢いということではない)。だからこそ、まず「本当にそれでいいのか?」と問いかけてみよう。そうやってまわりを見渡してみようと私は訴えかけたい。そして、ついにはこれは正しいのかではなく、なにが正しいのかと問えるようにならなければならない。

 

文責:会計

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